京都、滋賀、大阪、陶磁をめぐる旅4/5
2008-06-28

可必館を出て、左へと向かうと八坂神社が見えてくる。近くに行きたいギャラリーがあったので、神社のわき道をすっと入っていくと、料亭が並ぶ細い通りにでる。料亭にまぎれて1つギャラリーがあるのだが、見つからない。おそらくこれではないのかと思う建物があるのだが、展示会が無いため休みなのだろう。諦めて京都国立近代美術館へと向かうことにする。結構な距離だが京都の町並みを味わうには、適度な距離だ。
途中、人で賑わう店舗に出くわす。一澤帆布かばん店だ。

近くに駅は無く、路面店ではあるが、微妙な位置にあるのに中へ入ると、休日の原宿竹下通りレベルの肩のぶつかり合いである。本当に短時間しかいなかったのだが、次から次へとかばんが売れていく。これはすごいビジネスだと感心する。
かばんはどれもシンプルな形だが種類がいろいろある。カラーバリエーションも豊富。素材はかっちり帆布で耐久性も高そう。商品力は十分だ。そして、ブランドロゴははずせない。もう10年以上も前のことだろうか、高校生の頃、大阪から転校してきた女の子が一澤帆布のバックを持っていた。うすいベージュのシンプルなトートバック。「いいバッグだね」と聞くと彼女は「京都でしか買えないの」と言った。
店を出てさらに北上すると、また一澤帆布かばん店が出てくる。

先ほどの店舗とはセレクトを変えている。こちらも人がひっきりなしに出入りしてくる。今でも京都でしか買えないのかどうかは分からないが、10年経っても京都でしか買えなかったらそれはなんだかいい話だ。京都へ来て買って帰る価値は十分にあるだろう。

京都国立美術館へと歩みを進めているが、はたしてそこでどんな展示会が開催されているかは知らない。ただ、直感的に行ってみたいだけなのだ。
裏通りの近道を、地図の上でなぞってみる。

実際にそこに行って見ると細い川が流れている。川づたいに行けばつくはずだ。

遠くに赤い鳥居が見えてくる。それは巨大だ。

鳥居を正面にして、左に国立近代美術館。右には京都市美術館。


そんなものがあったのか。企画を見比べて見ると、左が「ルノワール」、右が「うつわ考」。右へと進み、中へ入る。

偶然にも、このブログのメインテーマである陶芸にまつわるネタが転がり込んできた。
この企画は「うつわ」という定まることがない概念を、京都の作家達がどのように表現してきたかということを、ずらりとならべて、みんなで考えて見ようという企画だ。きっと。
何十点と並ぶうつわのなか。目に留まったのは八木一夫のうつわであった。可必館で思ったことがぼくをここへ導いたのだろうか?シンクロニシティ??偶然なのか必然なのか、目の前にあるのは確かに八木一夫のうつわである。
八木さんのうつわでぼくが一番好きなのは、黒陶で平べったいゾーンという作品だ。フランツカフカの小説を陶芸で表現した「ザムザ氏の散歩」はあまりにも有名だが(陶芸オタクのみだが)、それは本当に原初的な衝動で作られた初期の作品。オブジェも進化するのだ。晩年の作品はとても洗練されている。「離陸の角度」も、本当に詩的で、アールデコ建築で有名な目黒庭園美術館の最上階、白いタイルと黒いタイルが組み合わせれた空間にたった一つ、それは配置されていたが、その異様な空気感はいまでも思い出せる。

「刻々の炎」八木一夫(駿駿堂)より
足早に美術館を出る。さて、次は細見美術館だ。美術館美術館、さっきから美術館ばかりだ。長野へ旅行したときは、そばそばうるさく、そばを3食食べた日もある。そばと美術館は、1日3食いけるのだ。いっそのこと美術館で作品を見ながらそばが食えればいいのだが、そういう美術館はいまだにみたことがないし聞いたこともない。ぼくが資産家になったら、死後、そんな美術館を建てたい。だが、そばの歴史を辿るそば資料館の存在は聞いたことがある。しかし、それにはあまり興味はないのだ。そばは食べられなくてはならないのだ。美術は?食べられればいいが、金がないのだ。そんなことを考えているうちに細見美術館に着く、ということにしよう。

細見美術館とはなにか。細見さんが作った美術館だ。それはあたりまえのことだ。詳しくは知らないが、企画展は「祈りの美・かざりの美」。実に面白そうな企画だ。

―チケット一枚ください。
―はい。ではこのシールを胸に貼って、奥からお入りください。
言われたとおり、赤い小さなシールをシャツの上に張る。そして奥の入り口から入る。
しん、としている空間に仏様が描かれた絵が何枚も垂れ下がっている。これはすてきな美術館だ。壁がオレンジ色の塗り壁で清潔。コレクションもすごい。こういう仏画は実物を見たことがない。古くは平安時代の愛染明王像や普賢菩薩像などが展示されている。いにしえの人々は、祈りのためにこのような仏画を飾ったというだけあって、この展示室自体が神秘的な空気になっている。そのほかにも仏具や工芸品が並べられており、どれもそのセンスにおどろかされる。
途中、引き出し黒の茶碗と黒織部の沓型の茶碗が出てくる。これが本当にきれい。どちらも小ぶりで上品。隣同士にこの二つが置かれている組み合わせも感動的。利休と織部が隣同士にいるような、そんなイメージに、ガラス越しにため息が出る。
引き出し黒の茶碗は楽家のものだが直径の楽家ではなく、踏襲していない、なぞの楽さんのものだという。この人が作った作品はほとんど残っておらず、貴重なものだという。飾り気がない、質素な楽茶碗。欲しい。織部は、最近になって本当にピンきりなものだということが分かってきた。織部と一言で言っても、ダサいものはやっぱりダサい。そのゆがみ方に上品さがあるものとないものがある。ガラス越しにある黒織部。ゆがみの美しさに、再度ためいき。軽くノートにスケッチして、ラインをなでてみるのだが、こういうものは本当に設計図なしの、偶然というか、ゆびのニュアンスというか、微妙な神経が必要だなと思う。
細見美術館は中央が空洞になっており、地下には飲食スペースがある。絵を見て、そばは食えないが、スパゲッティは食える。

さて、もうPM5時である。さてどうしようか。ふらり歩みは来た道を戻っている。可必館の前にあった、祇園を通ってみよう。祇園は、町並みが統一されている。

時代劇のような景観だ。飲食店が並ぶが、その暖簾が風に揺れて、祇園の風景を作っている。風に布がゆれるというのは、けっこう気持ちいい風景だと思う。
いつの間にか祇園を通り越し、さて、本格的にどこへ行こうか迷う。まっすぐ行くと、地図によれば、清水寺の方へ向かうことになる。五条坂へ行こう。そこは八木一夫が住んでいた場所だ。結構遠いがなんとか五条坂入り口へ着く。清水寺から帰ってくる観光客に逆らう形で上っていく。本当にここが観光の名所清水寺へ向かうルートなのかというくらい人がいなくなってものすごく寂しいとおりになってくる。

もちろん、八木家はどこにあるかわからないし、その面影もない。うつわ屋があるが、それはどこにでもあるようなうつわ屋で、京都のうつわ文化を知るには至らない。
再び途方にくれる。京都駅へ向かうバスに乗る。

京都はもう、夜である。
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